この世に生まれてからの約20年間のうち、数多くのデザインに触れ、山のような文章に目を通し、沢山の感嘆を味わった。
数え切れない知識や、喜怒哀楽では言い表せ無い感情に出会ったりもした。
今回の題材である”人生で1番で大切なモノ”は、私が出会った沢山の情報に埋もれてしまった記憶の中に、果たしてあるのだろうか。
私の記憶は歳月と共に増え、そして消える。
その中で、今現在まで色濃く脳裏に焼きつき、その”モノ”を手に入れた時の感覚や景色が蘇る程の思い入れがある記憶を、”人生で1番大切なモノ”と定義するのだとすれば、幾つかの記憶が思い当たる。
モノとしては、
お気に入りのアーティストの歌詞カード
10歳から集めていた月刊のフリーペーパー
コレクションしているCDジャケット
など、細々としたモノが多い。
しかし、これらを手にした時の高揚感や空気感をはっきりと覚えている。
その中でも、今回取り上げるのは、私の師である方のアートである。
当時使っていたiPhoneケースが真っ白で寂しかったという単純な理由で、私はその方に「ケースをかっこよくしてくれませんか。」と頼んだ。
しかし、「デザインなんてできない。」という理由で断られてしまったので、改めて「落書きをして下さい。」と再度頼んでみたところ、了承を得る事が出来た。
2週間後に返ってきたケースにはびっしりと絵が描かれていた。
その絵を見た瞬間、私は「これがアートか。」と感じた。
決して上手くはない絵ではあるが、何故か見ていて飽きが来ない。
師の絵だという欲目も勿論ながら、それを遥かに超越する何かをその絵から感じ取ったのだ。
この時、アートとデザインが違うモノなのだと私は知った。
師は「デザインなんてできない。」と言っていたが、返ってきたケースの上では”私”という一人間を惹きつけるアートが展開されていた。
師の人間性を垣間見る事の出来るアートは、師の自己表現でもあったのだろう。
ケースを受け取った日はじめじめとした夏の日で、「ケースが汗を掻いてしまわないように。」と訳の分からない事を思いながら足早に家に帰った。
鼻をつくのは夏の葉を連想させる緑の匂い、暗い駅前を明るく照らす月は駅前のタバコ屋の看板に沿って三日月になっていた。
やけに明るい月光にケースを翳したり、手を伸ばして月の横にケースを並べて見比べたりと、その日は夢に落ちるまでずっとケースを見ていたという記憶が、手にした瞬間脳裏を勢い良く駆け巡る。
このレポートをきっかけに、デザインとアートの定義が気になり、大辞林で調べてみた。
デザインの定義は「作ろうとするものの形態について、機能や生産工程などを考えて構成すること」
一方、アートの定義は「特殊な素材・手段・形式により、技巧を駆使して美を創造・表現しようとする人間活動、およびその作品」だった。
2つの基本定義から考えると、デザインは計画から成り立ち、何かを習得する事で可能な範囲が広がるが、アートは多くの感情と天性から成り得るスキルを必要としている。
デザインの方が客観的で、アートの方が主観的であるとも捉えられる。
私の師は、きっと何にも囚われず、主観的に捉えた自分の世界を私のケースに投影してくれたのだろう。
私の記憶に残っているモノの大多数は”デザイン”であるわけだが、このケースだけは”アート”と呼べるのではないだろうか。
私の”人生で1番大切なモノ”に名前を付けるとすれば、「人の主観が投影されたアート」である。